友人Yの話です。
久しぶりに一人で休めそうだった日曜日の朝、義母から届いたメッセージ。
その一言で、嫁の休みは最初から数に入っていないと気づいてしまい──。

義伯母が来てくれること自体は、決して悪い出来事ではありません。
けれど、その予定の中に「Yが休めるかどうか」という視点は、どこにも見当たりませんでした。
気づけば、Yの一日はまた誰かの都合で埋められていったのです。

外れた視点

義伯母が来てうれしいのは、義母自身の気持ちです。
その一方で、その日がYにとって久々の休みだという事実は、最初から想定に入っていませんでした。

「嫁を休ませる発想は、最初からないのかもしれない」
そう思った瞬間、胸の奥に引っかかっていた違和感が、はっきりと形を持ちます。

画面に残るメッセージをしばらく見つめ、Yはスマホを伏せました。
誰かが喜ぶ予定は当然のように優先され、嫁の疲れや気持ちは、考える対象にすらなっていない。
その順番が、あまりに当たり前のように繰り返されていることに気づいてしまったのです。

静かな自覚

手伝うこと自体が、つらいわけではありません。
ただ、物事がいつも義母の気持ちを基準に進み、その延長線上に嫁の役割が置かれている。
その構図が固定されていることに、Yは静かに気づきました。

義伯母の訪問を喜ぶ気持ちと、嫁が休みたいという気持ち。
そのどちらも同時には成立しない場面で、
「嫁を休ませる発想は、最初からないのかもしれない」
そう感じていたのです。

【体験者:50代女性・筆者、回答時期:2025年12月】

※本記事は、執筆ライターが取材した実話です。ライターがヒアリングした内容となっており、取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。

FTNコラムニスト:Kiko.G
嫁姑問題をメインテーマにライター活動をスタート。社宅生活をしていた経験から、ママ友ネットワークが広がり、取材対象に。自らが離婚や病気を経験したことで、様々な悩みを持つ読者を元気づけたいと思い、自身の人脈や読者の声を取材し、記事として執筆。noteでは、糖尿病の体験記についても発信中。

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