新人だからこそ、手を抜かずにいた
試食販売の仕事を始めて、まだ日が浅い私。新人なりに、マニュアルは何度も読み、接客も丁寧に行うように努めていました。
その日は、新商品のデニッシュパン。甘くて香ばしい匂いがあたりに漂っていて、人通りの多いスーパーの一角には、にぎやかな空気が流れています。
笑顔を絶やさず、私はいつものようにお客様に声をかけていました。
小さな男の子と、知らない女性
ふと、1人の男の子がとことこ近づいてきました。まだ4歳くらい。目を輝かせてパンを見つめています。
「パン、食べたい!」男の子はすぐにでもパンを食べたそうにしています。
私はすぐに声をかけました。「食べたいんだね。でも大人の人と一緒に来てね」
マニュアルには、子どもだけでは渡せないとあります。ルールとはいえ、ちょっとかわいそうかな……。そんな気持ちが胸をよぎったそのとき、突然横から声が飛んできました。
「欲しがってるじゃない。ひと口くらい、あげたらいいでしょ?」
声の主は、通りすがりの中年女性でした。
ルールを貫く勇気
一瞬ためらいましたが、すぐに尋ねました。
「ご家族の方ですか?」
「違うわよ。でも、ケチくさいわね」
と不機嫌そうに返されました。
女性は、善意のつもりだったのかもしれません。でも、私はやはりお渡しするわけにはいきませんでした。
「申し訳ありません。会社の決まりなので、保護者の方がいないとお渡しできません」
女性はため息をつきながら、あからさまに不快な態度でそこに立ち続けました。
私は心の中で「これで良かったのか」と自問しながら、少しだけ肩に力が入っていたのを覚えています。
母親の言葉が教えてくれたこと
そのとき、売り場の向こうから「◯◯!」と呼ぶ声、男の子の母親が駆け寄ってきました。目を離した一瞬のうちに子どもが離れてしまったようです。
母親は私に小さく頭を下げ、男の子に優しく言いました。
「このパン、食べたかったの? でもね、ブツブツができてかゆくなっちゃうから、食べられないのよ。他に美味しそうなもの、探そうね」
「この子、小麦アレルギーなんだ!」そう気づいた瞬間、私は心の底からホッとしました。もしあのとき渡していたら……。想像するだけで、背筋がぞっとしました。
ふと横を見ると先程の女性は、気まずそうに目を逸らし足早にその場を離れていきました。
きっと、あの女性にも悪気はなかったのでしょう。だからこそ、自分がその場で判断を誤らなかったことを、私はこれからも大切にしていきたいのです。
【体験者:20代・女性主婦、回答時期:2025年7月】
※本記事は、執筆ライターが取材した実話です。ライターがヒアリングした内容となっており、取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
ltnライター:Yumeko.N
元大学職員のコラムニスト。専業主婦として家事と子育てに奮闘。その傍ら、ママ友や同僚からの聞き取り・紹介を中心にインタビューを行う。特に子育てに関する記事、教育機関での経験を通じた子供の成長に関わる親子・家庭環境のテーマを得意とし、同ジャンルのフィールドワークを通じて記事を執筆。