母としての決断
知人のTさんが離婚を決意したのは、娘の奈々さん(仮名)が小学3年の頃でした。
無関心な夫、心ない言葉。家庭に笑顔はなく、「このままだと娘まで壊れてしまう」と思い詰め、家を出る決心をしたのです。
「ママと一緒に行く」そう言ってくれた奈々さんの言葉に、どれほど救われたか。Tさんは、不安を抱えながらも、新しい生活に踏み出しました。
負い目からの口ぐせ
けれど、時が経つにつれて奈々さんは少しずつ口数が減っていきました。中学生になる頃には会話が減り、高校生になると、すっかり言葉を交わすことも少なくなりました。
そんなある日、「この大学に行きたい」と奈々さんが進路の話を切り出しました。Tさんは思わず涙をこぼしてしまいます。
「うちでは無理かも。ごめんね、ママだけになっちゃったからさ」
夢を語る娘に、現実の厳しさで返してしまったのです。自然に出たのは、いつもの「ごめんね」でした。
Tさんはずっと前から、何かあるたびにこうつぶやいていました。
「ママが離婚したから、ごめんね」
テストの結果が悪かった日、友達とのトラブルで泣いて帰ってきた日、奈々さんが不安そうにしていた日も。Tさんは涙ながらに謝り続け、そのたびに奈々さんは、黙って聞いていたのです。
笑い声は消え、家の空気は次第に重たくなっていきました。そしてある日、ついに奈々さんが怒鳴りました。
「泣いてばっかりいないでよ! いい加減にして!」
Tさんは言葉を失い、その後も親子の距離は縮まらないままでした。
やがて奈々さんは社会人に。生活の時間もすれ違うようになり、ついに「家を出たい」と告げられました。
Tさんは思わず「寂しいから、行かないで」と引き留めましたが、それが決定的なひと言となってしまいました。
「私はママのカウンセラーじゃない! ママも自分の幸せを見つけてよ!」
奈々さんは大きな声で叫ぶと、そのまま家を出ていきました。
それから数年。母と娘は、連絡を取ることなく、心の距離は深まる一方でした。
娘の本音
その日、Tさんのスマホに届いたのは、奈々さんからの一通のLINEメッセージでした。
「結婚するの。式に来てほしい」
思わず画面を見つめたまま、Tさんはしばらく動けませんでした。あれほどこじれてしまった親子関係。もう一生、連絡など来るはずがないと思っていたのです。
式の数日前。顔合わせの席に呼ばれたTさんは、緊張で胸が張り裂けそうでした。
どんな顔をして会えばいいのか、何を話せばいいのかもわからず、ただ座っていると、奈々さんの婚約者がゆっくりと話し始めました。
「奈々ちゃん、社会人になってから本当に大変だったんです。知らないことばかりで、毎日怒られて、泣きながら帰ることも多くて……誰にも頼れなかったみたいで」
Tさんは、我が子がそんな思いを抱えていたことに、胸を締めつけられる思いがしました。
「僕や両親が話を聞く中で、“ママに相談できたらな”って、奈々ちゃんは何度もつぶやいていたんですよ」
その言葉を聞いた瞬間、Tさんの視界がじんわりと滲みました。
遠くに行ってしまったと思っていた心は、実はずっと、すぐそばにあったのだと感じたのです。
沈黙を越えて、涙でつながる親子の絆
結婚式当日。Tさんは、 親子のあいだに続いた長い沈黙が、少しでも埋まってくれたら。そんな願いを胸に抱いていたそうです。
披露宴のスピーチで、奈々さんは静かに語り始めました。
「私がここまで来られたのは、お母さんのおかげです。たくさんぶつかったけど、ずっと感謝していました」
その言葉に、Tさんは声をあげて泣きました。
あの日々が決して無駄ではなかったこと。長い沈黙のなかにも、確かな愛が息づいていたことを、ようやく感じることができたのです。
幸せな人生は、誰かから与えられるものではない。
娘が自分の足で立ち、あたたかな家庭を築こうとしている姿を見て、Tさんはようやくそのことに気づいたそうです。
「あの日ふたたび、親子に戻れたんです」
取材の最後にこぼれたその言葉が、すべてを物語っていました。
【体験者:60代・会社員女性、回答時期:2022年8月】
※本記事は、執筆ライターが取材した実話です。ライターがヒアリングした内容となっており、取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
ltnライター:神野まみ
フリーランスのWEBライター・コラムニスト。地域情報誌や女性向けWEBメディアでの執筆経験を活かし、医療・健康、人間関係のコラム、マーケティングなど幅広い分野で活動している。家族やママ友のトラブル経験を原点とし、「誰にも言えない本音を届けたい」という想いで執筆を開始。実体験をもとにしたフィールドワークやヒアリング、SNSや専門家取材、公的機関の情報などを通じて信頼性の高い情報源からリアルな声を集めている。女性向けメディアで連載や寄稿を行い、noteでは実話をもとにしたコラムやストーリーを発信中。