筆者の話です。
若い頃、友人の「お嫁さんなんだから」という言葉にうなずいていた私。
けれど結婚して気づいたのは──あのとき想像もしていなかった「現実の重さ」でした。

結婚で変わった景色

けれど自分が妻として家庭に入ると、状況は一変しました。
自分の親に加えて、夫の親も「大切にすべき家族」になるという現実。

冠婚葬祭や季節の行事、親戚づき合いなど、気を配る場面は単純に×2に増えていきます。
結婚式でしか会ったことがない親類の法事、誰が誰だかわからないまま「〇〇くんのお嫁さん!」と呼ばれ雑事をこなす。
若いのだからと座る暇さえ与えられません。
予定表が義実家の予定で埋まっていくたびに、気持ちの余白がどんどん削られていくようでした。

それでも表向きは平気な顔をして過ごさなければならないため、心の奥だけが、静かにすり減っていきます。
そのたびに「思っていたのと違う」と胸の奥がざわついたのです。

言葉の重さに気づく

そんな日々を重ねるうちに、若い頃の自分の言葉がいかに浅かったか思い知らされました。
「嫁なんだからやるべき」というひと言が、人にどれほどの負担を背負わせるのか。
家に帰ると一歩も動きたくないし、誰にも会いたくない。

行事が近づくたびに気を張り、終わると力が抜けるように重さだけが残る──そんな「見えない疲れ」が、じわじわ積もっていきます。
実際にその立場に立つようになって初めて、その重みがまっすぐ刺さってきました。

手放したら見えた温度

今はもう、誰がやるべきかにこだわる気持ちはありません。
その場にいる誰かが、できることをすればいい。
「家族なのだからあなたも率先して動くべき」と夫にも伝え、声掛けして協力体制を築くようになりました。

結婚して初めて知ったのは「お嫁さんも誰かが大切に育てた娘さん」という当たり前のこと。
そして、家事や介護が「誰かひとりの役目」になるなんて、本来あるべき姿ではないのだということです。
固定観念を手放すだけで、人との関係はこんなにもあたたかくなる。
そう感じた出来事です。

【体験者:50代女性・筆者、回答時期:2025年11月】

※本記事は、執筆ライターが取材した実話です。ライターがヒアリングした内容となっており、取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。

FTNコラムニスト:Kiko.G
嫁姑問題をメインテーマにライター活動をスタート。社宅生活をしていた経験から、ママ友ネットワークが広がり、取材対象に。自らが離婚や病気を経験したことで、様々な悩みを持つ読者を元気づけたいと思い、自身の人脈や読者の声を取材し、記事として執筆。noteでは、糖尿病の体験記についても発信中。