父が亡くなったとき、葬儀の準備や連絡など想像以上に決めごとが多く、悲しみの中で何度も家族会議を重ねました。
その経験を経て「エンディングノートは残される人へのやさしさなのかもしれない」と感じた出来事です。
わからないことだらけの葬儀準備
「祭壇はどんな形にする?」「葬儀はいつにする?」「葬儀には誰を呼べばいい?」
せめて葬儀は父の望む形で見送りたい。
父が会いたいと思っていた人にお別れをしてほしい。
そう思っても「こうしてほしい」という父の意向をもう聞くことは叶いません。
家族で何度も話し合いを重ねるたびに、悲しみと迷いが胸の奥で絡まりました。
生前に「葬儀はこうしてほしい」という相談なんて、死を待っているようで、話題に出すことすらためらっていたのです。
父の気持ちを確認していなかったことを悔やまずにはいられませんでした。
「決めること」の重さに気づく
通夜、告別式、香典返し、遺影の写真──
どれも「これでいいのかな」と自問しながら進めました。
父の好きだった写真を選んだつもりでも、母が「もっと笑っている写真がよかったかも」とつぶやくと、自信が揺らぎます。
それでも家族がいたから相談しながらでも進めることができましたが、誰かの『最期』を整える作業は、こんなにも心をすり減らすものなのかと痛感しました。
生きているうちに伝えられること
葬儀を終えて時間が経った今、ふと思います。
「こうしてほしい」「これはいらない」──
たった一言でも残しておいてくれたら、あのときもう少し楽だったかもしれないと。
最近は、自分のことも少しずつノートに書き留めるようになっています。
死んだあとのことはどうにもならないけれど、
生きているうちに「どうしてほしいか」を伝えることはできる。
それもまた、残される人への最後のやさしさなのだと感じています。
【体験者:50代女性・筆者、回答時期:2025年10月】
※本記事は、執筆ライターが取材した実話です。ライターがヒアリングした内容となっており、取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
FTNコラムニスト:Kiko.G
嫁姑問題をメインテーマにライター活動をスタート。社宅生活をしていた経験から、ママ友ネットワークが広がり、取材対象に。自らが離婚や病気を経験したことで、様々な悩みを持つ読者を元気づけたいと思い、自身の人脈や読者の声を取材し、記事として執筆。noteでは、糖尿病の体験記についても発信中。