厳格で近寄りがたいと思っていた筆者の父。その父が大切にしていた「親戚とのつながり」。亡くなった後、一人暮らしとなった母のもとへ親戚たちが様子を見にきてくれるようになり、「つながり」の大切さを実感しています。

父の休日の過ごし方

子どもの頃、休みの日になると父はよく自身の兄弟や叔父叔母の家を訪ねていました。
そこに特別な用事があるわけではありません。庭先で少し立ち話をしたり、家に上がってお茶を飲む程度でした。

父に尋ねたことがあります。「なぜ用もないのに行くの?」と。
答えは「顔を見に行くだけ」「暇つぶし」など素っ気ないもの。
そして「親戚は時々顔を合わせて、つながっておくものだ」と言うのです。
当時の私はその言葉の意味を十分に理解できず、「そんなものなのかな」と曖昧に受け止めていました。

理解できなかった父の思い

父の親戚めぐりは、定年を過ぎても続きました。
その頃には父の兄弟もだんだん高齢になり、ひとりで出かけることも難しくなってきていました。
そんな兄弟の体調を気遣い、様子を見に行っていたようです。

「暇つぶし」というのは照れ隠しで、早くに両親を亡くした父は、叔父叔母、兄弟の顔に、亡き両親の面影を見ていたのかもしれません。

父の旅立ちと親戚の言葉

そして父が亡くなった日、多くの親戚が弔問に訪れてくれました。
そこで耳にした言葉に、私は胸を打たれました。

「顔を見に来てくれるのが楽しみだった」「優しい人だった」「気にかけてくれて嬉しかった」
その一言一言が、父の生き方そのものを物語っていました。父の何気ない習慣が、親戚にとって大きな支えであり、心のよりどころだったのか━━。
父のやさしさに気づかされた瞬間でした。

受け継がれる「つながり」

父がいなくなった今、一人暮らしとなった母のもとへ、親戚が訪ねてきてくれます。
庭先で声をかけてくれたり、野菜を持ってきてくれたりする姿を目にするたびに、父の言葉の意味を深く実感します。

「親戚は時々顔を合わせてつながっておくもの」━━その精神が今、母を支えてくれているのです。
便利さや効率ばかりが重視される時代だからこそ、父のように「顔を見に行く」ひと手間が、人の心をつなぐのだと思います。

人とのつながりは特別な理由や大きな出来事がなくても、日々の小さな交流によって守られていくということなのでしょう。
今はもう父に尋ねることはできませんが、あの日の答えがようやくわかったような気がします。

【体験者:50代・筆者 回答時期:2025年10月】

※本記事は、執筆ライターが取材した実話です。ライターがヒヤリングした内容となっており、取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。

FTNコラムニスト:大下ユウ
歯科衛生士として長年活躍後、一般事務、そして子育てを経て再び歯科衛生士に復帰。その後、自身の経験を活かし、対人関係の仕事とは真逆の在宅ワークであるWebライターに挑戦。現在は、歯科・医療関係、占い、子育て、料理といった幅広いジャンルで、自身の経験や家族・友人へのヒアリングを通して、読者の心に響く記事を執筆中。