実家に、知らない誰かが住んでいる? 定年後、突然、父が一緒に暮らし始めた“同居人”に戸惑う、娘のやすこさん(仮名)。誰にも姿を見せない“あの人”の正体と、亡くなる直前のひと言が、筆者の友人・やすこさんの心に深く残った実話です。

父の声だけがやけに大きい会話が気になって、やすこさんはもう一度、そっと引き戸を少しだけ開けました。

ギョッとしました。
父がひとり正面の椅子に向かって、静かに話しかけています。 誰もいない、空の部屋で。

その光景を目にした瞬間、やすこさんの中で、「これは、おかしい」そう感じたのです。

声も出せず、扉をそっと閉めました。
心臓がドクン、ドクンと脈を打ち、やすこさんはリビングに慌てて戻りました。
ぬるくなったお茶を、一気に飲み干したそうです。

“あの人”の正体

その日は気が動転してしまい、「お父さん、今日はそろそろ帰るわ」とだけ伝えて、やすこさんは急いで実家を後にしました。

家に戻り、すぐに夫に相談しました。
「おかしい。何か、ちゃんと診てもらったほうがいい気がする」
気持ちは焦っていましたが、父にどう伝えるかが難題でした。

悩んだ末、「会社の健康診断がまだ受けられるらしいよ」と声をかけてみたのです。
会社一筋だった父は、そのひと言に素直にうなずき、病院へ行ってくれました。

検査の結果、脳に腫瘍が見つかりました。
幻覚が出ることもあると聞き、“あの人”の正体にようやく気づいて、手術も出来ると聞き、やすこさんは少しほっとしたそうです。

幸い、手術で腫瘍は取り除くことができました。

あとは頼んだ

手術は成功しましたが、数年後、父は別の病で亡くなりました。

最期のとき、病室で手を握っていたやすこさんに、父はうわごとのように言いました。

「……あの人。ほら、お前の後ろで今も待ってるよ。兄ちゃんと一緒に。あの人のこと、あとは頼んだ」

兄は、十年前に事故で亡くなっています。
やすこさんと夫は「兄ちゃんと一緒に」という言葉に息をのんで目を合わせ、振り返ることができなかったそうです。

“あの人”とは、いったい誰だったのか。
やすこさんは、その姿を見ることはありませんでしたが、父の目には、たしかに誰かが映っていたように思えたといいます。

会話をし、ともに暮らし、ときに機嫌まで気にしていた相手。

“あの人”は、失った家族への思いが形を変えて現れた、父なりの寂しさに対する逃げ道であったり、時には心の支えとなっていたのかもしれません。「あの人のこと、あとは頼んだ」そのひと言は、父なりの優しさだったと信じたい。
しかし、幻だとわかっていても、現実のような空気がそこにあってゾクッとしたと、やすこさんは話してくれました。

【体験者:30代・主婦、回答時期:2023年3月】

※本記事は、執筆ライターが取材した実話です。ライターがヒアリングした内容となっており、取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。

ltnライター:神野まみ
フリーランスのWEBライター・コラムニスト。地域情報誌や女性向けWEBメディアでの執筆経験を活かし、医療・健康、人間関係のコラム、マーケティングなど幅広い分野で活動している。家族やママ友のトラブル経験を原点とし、「誰にも言えない本音を届けたい」という想いで執筆を開始。実体験をもとにしたフィールドワークやヒアリング、SNSや専門家取材、公的機関の情報などを通じて信頼性の高い情報源からリアルな声を集めている。女性向けメディアで連載や寄稿を行い、noteでは実話をもとにしたコラムやストーリーを発信中。