老後が寂しくてな
やすこさんの実家は、広くてとても立派な家でした。
きちんと手入れがされていて、誰が訪ねても恥ずかしくないような住まいです。
父は、定年まで会社一筋。
真面目で少し頑固、人付き合いはあまり得意なほうではありませんでした。
家では多くを語らず、ひとりで静かに過ごす時間を大切にしていたそうです。
だからこそ、「誰かを住まわせる」と聞いたとき、やすこさんはギョッとしました。
そんな父が、ある日ぽつりと言いました。
「家の一室を貸すことにしたんだ」
理由を聞くと、「老後が寂しくてな」とだけ。
それだけならまだしも、相手のことは何も教えてくれません。
「誰に貸すの?」と尋ねても、「友人だよ」とだけ返されました。
名前も年齢も、どんな人なのかもわからないまま。話はそれ以上、進みませんでした。
一体、誰が住んでいるのか。
父の様子が、なんとなく気にかかるようになっていきました。
“あの人”
父は、“あの人”という言葉を口にすることが増えていきました。
電話でも、「“あの人”、テレビが好きで夜中に観てるんだよ」と、楽しそうに話してきます。
やすこさんも、「人助けか何かで、一緒に暮らしているんだろう。実家に行けば、いずれ挨拶できる」と思っていました。
名前を尋ねても、「友人だよ」と笑うだけで、詳しいことは何も語りません。
母は数年前に病気で亡くなっています。それから父は、広い家でひとり暮らし。
やすこさんは、週に何度か実家へ通っては、洗濯や買い出しなど、身の回りのことを手伝っていました。
その日も、いつものように実家を訪ねました。
玄関には、変わりなく父の靴とサンダルだけが並んでいます。
お茶を淹れているとき、ふと父に尋ねました。「“あの人”って、どの部屋にいるの?」
父はあっさりと答えます。「ああ、奥の六畳の部屋だよ」その言い方があまりに自然で、やすこさんは違和感などまったくなく「ふーん」と軽くうなずきました。
しばらくして、やすこさんは六畳間の前を通りかかりました。
引き戸が少し開いていたので、何気なく覗こうとしたその瞬間、父の声がしました。
「今日はあの人、朝から機嫌が悪いんだよ」そう言って、静かに引き戸を閉めました。
台所の冷蔵庫には、二人分のおかず。洗面所には、歯ブラシが二本。
「やっぱり誰かいるんだ」と思いながら、やすこさんは廊下を通りすぎました。
ところがその直後、奥の部屋から父の声が聞こえてきました。
「うんうん、それで……ほら、昨日も」だれかと会話しているような様子。