いつもの電車
午前中、サキさんは、いつもの電車に乗り込みました。時差通勤でラッシュの時間を少しずらしたはずなのに、車内は8割ほど埋まっていたそうです。
すぐに目に飛び込んできたのは、優先席の周りで騒ぐ若者たち。通路を挟んで両側に陣取り、足を投げ出し、荷物も好き放題に広げ、大声で笑い合っていました。
見て見ぬふりをする大人たち。眉をひそめながらも、誰も何も言えない──そんな重たい空気が、車内を包み込んでいたのです。
にぎやかすぎる車内
若者たちは、通路を挟んで向かい合い、それぞれ優先席に座ってふざけ合っていました。
大きなお腹を抱えた女性が近づいても、誰も気づかない。いや、気づいていても、あえて無視しているかのようでした。
気まずさとあきらめが入り混じった空気だけが、車内を支配していました。
スカーフのマダム
そこへ、ゆっくりと杖をついた老婦人が現れました。
品のあるハットをかぶり、首元にはセンスの良いスカーフが揺れています。
姿勢もしゃんとしていて、静かな存在感を放っていました。
そのたたずまいは、まさに“マダム”という言葉がぴったりでした。
老婦人は、若者たちの前まで歩み寄り、やわらかな笑みでこう言いました。
「ごめんなさいね、あなたの“ヒザ”に座っていいかしら?」
空気が凍りつきました。
若者たちは一瞬、何が起きたのか理解できずに目を見開いていました。
そのあと、目の前の若者がバッと立ち、驚きと戸惑いを隠しきれずに真っ赤な顔で「あっ、どうぞどうぞ!」と声を上げます。
仲間たちは、「はあ?“ヒザ”の上って……」「あの人、ヤバくない?!」と騒ぎながら、蜘蛛の子を散らすように別の車両へ逃げていきました。
お見事です!
老婦人は、スマートに微笑みを浮かべ、スッと優先席に腰を下ろしました。
そのあと、ちらりと周囲を見渡して、やさしい声でつぶやきます。
「親切な若い方もいるのね……」
誰に言うでもなく、冗談めかして放たれたひと言。
その場の空気が、ふっと和らぐのをサキさんは感じたそうです。
老婦人は、そばに立っていた妊婦さんを見つけると、自然な声で呼びかけました。
「あなたも、お座りになって」
サキさんは、心の中で盛大な拍手を送っていました。
あの老婦人、なかなかの策士。
くうー! かっこいい。
さすがです、これは、あのマダムにしかできないわ──
思わぬ素敵なマダムとの出会いに、サキさんは心から憧れを抱いたようです。
【体験者:40代・会社員女性、回答時期:2024年5月】
※本記事は、執筆ライターが取材した実話です。ライターがヒアリングした内容となっており、取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
ltnライター:神野まみ
フリーランスのWEBライター・コラムニスト。地域情報誌や女性向けWEBメディアでの執筆経験を活かし、医療・健康、人間関係のコラム、マーケティングなど幅広い分野で活動している。家族やママ友のトラブル経験を原点とし、「誰にも言えない本音を届けたい」という想いで執筆を開始。実体験をもとにしたフィールドワークやヒアリング、SNSや専門家取材、公的機関の情報などを通じて信頼性の高い情報源からリアルな声を集めている。女性向けメディアで連載や寄稿を行い、noteでは実話をもとにしたコラムやストーリーを発信中。