耳元で……
ピッ、ピッとセルフレジの音が響く。
客の少ない時間帯、直美さんは、3歳になる娘と一緒に、小さな手を引きながら商品を通していました。
やってみたいとねだる娘に「3つだけね」と限定させ、バーコードにかざした後「上手にできたね」と娘に声をかけました。
娘と一緒に買い物をするのも、育児の大切な時間。社会勉強の1つになればと、成長をうれしく感じながら過ごしていたと言います。
そのとき、不意に耳元で、低くつぶやく声が聞こえました。
「早くしろよ、ノロいな」
何が起きたのか、直美さんはすぐにはわかりませんでした。ただ、心臓がドクンと跳ねた、その瞬間だけは、今もはっきり覚えていると言います。
背中に感じる恐怖
「すみません」直美さんは、怒りと恐怖を胸に抱えながら、3歳の娘の手を握り「後はお母さんがやるね」と、レジ作業を続けていました。
一刻も早くこの場を抜け出したい――そんな思いで、震える手を動かしていたのです。
そこへ、不意に背中へぐいっと強い押しがかかりました。
驚いて振り向く間もなく、初老の男性がカゴを背中に押しつけてきました。
初老の男性――さっき耳元で何かをつぶやいた、あの男です。
えっ、何なの、この人――。
怒りと恐怖で心臓がバクバクと跳ね、変な汗が額ににじみ出てきました。
必死でこらえていると、また背中にカゴがぐいっと押しつけられたのです。
もう、限界でした。
文句のひとつでも言いたかった。でも、娘がいる。
安全を最優先にしなきゃ。早く終わらせて、この場から離れなきゃ。
子どもが怖がらないように、何でもないふりをしなきゃ――。
そんな思いが一瞬で頭を駆け巡り、直美さんは震える指先を隠しながら、必死でレジを打ち続けたと言います。
“響き渡る声”が空気を変えた
二度目のカゴの圧を背中に感じた、そのときでした。
セルフレジの列に並んでいた、さらに後ろの男性が、場に響くような、はっきりとした声で言いました。
「人の背中にカゴ押しつける人、初めて見たわ!」
その瞬間、場の空気がピタリと止まり、初老の男性はカゴを引きました。
直美さんがクレジットカードをレジに通そうとしたとき、背後から再び、近い気配を感じます。
えっ、今度はなに――?
後ろを振り向こうとしたそのとき、視界に、スーパーの社員らしき男性が走り寄ってくるのが見えました。
社員らしき男性は迷いなく、直美さんの真後ろにいる初老の男性の肩を叩きました。
「事務所まで来ていただけますか」
落ち着いた声が、はっきりと響きます。
直美さんは、無意識に娘の手をぎゅっと握りしめていました。
優しさに救われて
直美さんのもとへ、レジスタッフが駆け寄ってきました。
小さな娘の顔に浮かんだ、怯えたような表情を見て、ハッとしたように声をかけてきたのです。
「お怪我はありませんか? 怖かったでしょう?」
その優しい声に、張りつめていた心がふっとほどけていきました。
直美さんは、娘をぎゅっと抱き寄せました。
怖かった。でも、今は――娘を守れた。
震える手で、娘の背中をそっとなでながら、自分自身をも落ち着かせようとしていました。
そのとき、別のスタッフが静かに教えてくれたのです。
「さきほど、列に並んでいたお客様が異変に気づいて、すぐに呼びに来てくださったんですよ」
さっき、声を出してくれたあの人だ。
直美さんの胸に、じんわりと温かいものが広がっていきました。
さらに、周囲にいたお客さんたちも、ぽつりぽつりと声をかけてくれました。
「大丈夫?」「怖かったね」
直美さんだけでなく、娘にも――。
その声に、胸の奥の緊張が、少しずつほどけていきました。
世界はまだ、捨てたもんじゃない。
そんなふうに思えた瞬間でした。
後から聞いた話では、あの初老の男性は、他にも迷惑行為を繰り返していたようで、スーパーへの出入りを禁止されたそうです。
その日以来、直美さんはスタッフさんたちと顔見知りになりました。
買い物に行くたび、「こんにちは」と声をかけてくれる。
毎日の買い物が、少し楽しい時間になりました。
「怖かったけど……見てくれている人がいるって、こんなにも心強いんだね」
直美さんは、そう言って、ふっと笑っていました。
まとめ
セルフレジで、親子で一緒に商品をスキャンしていると、後ろの人が時間がかかると感じる場面もあるかもしれません。しかし、カゴで押すといった理不尽な行為は許されるものではありません。
一方で、セルフレジは操作に慣れている方だけでなく、幼い子連れや初めて使う人、障がい者の方など、様々な利用者がいることを想定して設置されています。
誰もが気持ちよく利用できるようになるためには、利用する側は、混雑状況など周囲の状況を意識すること、見守る側は理解と寛容さを持つこと。また、お店側はお客様をサポートできる体制を整えておくこと。これらの相互の配慮と理解が合わされば、よりよいセルフレジ環境になるのではないでしょうか。
【体験者:30代・女性主婦、回答時期:2024年8月】
※本記事は、執筆ライターが取材した実話です。ライターがヒアリングした内容となっており、取材対象者の個人が特定されないよう固有名詞などに変更を加えながら構成しています。
ltnライター:神野まみ
フリーランスのWEBライター・コラムニスト。地域情報誌や女性向けWEBメディアでの執筆経験を活かし、医療・健康、人間関係のコラム、マーケティングなど幅広い分野で活動している。家族やママ友のトラブル経験を原点とし、「誰にも言えない本音を届けたい」という想いで執筆を開始。実体験をもとにしたフィールドワークやヒアリング、SNSや専門家取材、公的機関の情報などを通じて信頼性の高い情報源からリアルな声を集めている。女性向けメディアで連載や寄稿を行い、noteでは実話をもとにしたコラムやストーリーを発信中。